2007-09-02

哀悼アントニオ・プエルタ

スペインリーガ・エスパニョーラのSevillaに所属するアントニオ・プエルタは、
カンテラ(下部組織)出身でクラブの象徴的選手であり、スペイン代表でもあった。

公式戦88試合(リーガ55試合)に出場し、通算7ゴール。

 

8月25日に行われたリーガ・エスパニョーラ第1節のヘタフェ戦に先発出場し、
試合途中に突然ピッチに倒れた。

そのまま病院に運ばれたが、何度も心停止に見舞われ、その後も深刻な状態が続いた。
そして、スペイン時間8月28日の14時30分、
突然の病に倒れてから約60時間続いてた戦いを終え、静かにこの世を去った。

まだ22才だった。

 

セビージャのファンが今でも語り継ぐ2006年4月27日、UEFAカップ準決勝シャルケ04戦の
スーパーゴールは「セビージャの運命を変えたゴール」とまで言われている。

そのゴールによって初のUEFAカップ決勝進出を果たしたセビージャは、
それから瞬く間に5つのタイトルを獲得した。

 

選手としての未来はもちろんのこと、プライベートでも10月に父親になる予定だった。

「アイトール」と既に名付けられた息子の顔を見ることなく他界してしまった現実は
あまりに残酷だ。

公私で順風満帆の未来が待ち受けていたはずのプエルタの訃報に、
スペインのみならず世界中のサッカーファンが言葉を失った。

 

その中には、街を二分する永遠のライバルと言われたベティスの選手達や
ファン達の姿もあった。

セビージャとベティスのアンダルシアダービーはリーガの順位より
ダービーに勝利することが先決と言われている程、
世界一熱狂的で世界一仲の悪いダービーと言われている。

今年の2月に行われたコパ・デル・レイ(スペイン国王杯)準々決勝第2戦の
ベティス対セヴィージャの一戦で、ファンの投げた物がセヴィージャの
ファンデ・ラモス監督の頭部を直撃。

監督はそのまま病院へ搬送され、試合も後半途中で打ち切られたのも記憶に新しいが、
ベティスの選手達は26日の試合後、プエルタの入院する病院まで駆けつけた。

彼らの祈りは届かなかったが、悲しみにくれるセビージャの街がひとつになった。

 

彼が病と闘っている中、チームメートはアテネに向かわなければならなかった。

28日火曜日の夜に予定されていたチャンピオンズリーグ予備戦のAEKアテネとの試合のためだ。

アテネ入りしていたセビージャの首脳陣は試合の延期を要請。
その後プエルタの容態は急変し、最悪のニュースが伝えられた。

そして、CL予備戦は9月3日に延期が決定され、チームメート達は悲しみの中、帰国した。

 

しかし、31日にモナコで行われるUEFAスーパーカップのミランとの決勝戦は
予定通り行われる事になり、29日プエルタの埋葬に参加し最後の別れを惜しんだ後、
30日早朝、チームはモナコに向けて出発した。

試合ではセビージャのみならず、ミランもユニフォームの背番号の下に
「PUERTA」の文字を付けて戦った。

 

プエルタに勝利をささげようと意気込むセビージャが、レナトのゴールで先制。

レナトの元へチームメートが駆け寄り、皆で天を指差した。

プエルタに捧げるゴールだった。

 

しかし、後半、インザーギ、ヤンクロフスキ、カカがゴールを決め、
ミランがチャンピオンズリーグに続く栄冠を手にした。

マン・オブ・ザ・マッチに選出されたピルロ(ミラン)は、以下のように語った。

「過去に経験した決勝の中では、最高の出来だったと思う。
これまでも決勝では好プレーをしてきた。
しかし、それらはすべて素晴らしいイベントであり、勝つのもうれしかった。
今回は自分にとって最も悲しい決勝でもあった。
こういう状況の中で試合をするのは難しかったが、彼(プエルタ)のために、
私たちは最高のスピリットで試合をすることができた」

 

22才の若さでこの世を去ったアントニオ・プエルタには
どれだけ輝かしい未来が待っていたことだろうか…。

フットボールを愛する人々に大きな悲しみを残したまま、
昨夜からリーガ・エスパニョーラ第2節は始まっている。

 

心よりご冥福をお祈りします。

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